川の辺の町 - 20年の歳月
A Riverside Town - after 20 years New Work
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高瀬川は亡くなった。
1992年に展覧会で「無常高瀬川」、写真集「川の辺の町 京都」を発表した頃、十条通り東端の陶化橋から北方50メートル程の場所で、高瀬川は鴨川に合流していた。
数々の汚泥を背負って、鴨川に抱きかかえられるように合流していた高瀬川。それが、やや北方で流れを遮られ直角に曲がり、水門へ導かれ、水は堤防下の暗渠から鴨川に排出される。
松ノ木町40番地のトタン囲いの家々も消えて遊歩道のある堤防が続く。土手脇の集合住宅に移り住んだ人々は「20の齢」を重ねて独居老人となり、落下を防止するフェンスが、2階以上の通路側の全ての開放部に張り巡らされている。
鴨川と高瀬川は南に流れ東西に大路が横切る。その通りを越えるごとに見せる色・匂い・空気等が街色を変える。高瀬川の取水口から北60メートル程のところに二条大橋。そこから600メートル北方には御所だった「京都御苑」。医科大学や「付属病院」、数々の老舗。
「雅」の厚化粧と「非日常」の世界を演出した京都「らしさ」の中で、お上りさんは酔わせ踊らされる三条・四条。
街の日常生活が見え始めるのは古い五条の松原通り。交わす挨拶も軽やかでチョット長めの立ち話。買物が透けて見えるビニール袋をぶら下げた人々。
七条から十条にかけては地下鉄の「十条駅」・高速道路のIC・道路の拡幅そしてJR京都駅には徒歩5分から20分以内と言う地域。20階建て30階建てのオフィスビルやマンションの街に変貌しても不思議ではない。芸術系の大学が移転してくると言う明るい話も聞いた。
平安時代から続く地域差別、そして民族蔑視からの差別が残る地域で、「和やかに生きる」ことに懸命な人々が「生き易い」街になって欲しいと願いつつ、1992年から2013年4月まで撮影を続けた。
10年後の「川の辺」を見たい。徘徊したい。
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